民事信託の活用
民事信託とは,資産を有している人(委託者)が,自らの資産に関して管理等を委ねたい相手方(受託者)に対して,資産を移転させて,その受託者が特定の人(受益者)のために,その資産の管理・運用・処分を行うことをいいます。
民事信託については,高齢者の認知症対策や事業承継対策,障がい者の財産管理などの面から,遺言とは異なるメリットがあるとして,注目を集めています。
遺言は,遺言者の死亡時に初めて効力が生じますので,例えば,認知症になってしまったときにはこうして欲しいといった希望は,亡くなる前のことである以上,遺言によってかなえることはできません。
それに対して,民事信託は,認知能力がある段階で,信託契約を締結しておけば,生前であっても希望を実現することができることから,認知症対策としてメリットが大きい制度であるといえます。
高齢者の認知症リスクに備えて,民事信託を利用する場合
事例
Aさんは,現在75歳で,福岡市内に1棟のアパートを所有し,その各部屋を賃貸して賃料収入を得ており,その物件の管理も自ら行っています。
Aさんは,すでに妻に先立たれて一人暮らしをしていますが,近くに住む長女Bさんが,ちょくちょくAさんの元を訪れ,食事を作ってくれたり,アパート管理の手伝いをしてくれたりしています。Aさんには,長男もいますが,何年も前から海外に住んでおり,ほとんど交流はありません。
Aさんは,まだ認知能力に問題はなく,物件の管理もできる状況ですが,高齢ということもあり,そろそろBさんにアパート管理を委ねたいと考えています。
AさんはBさんに,アパートを贈与しておこうかとも考えましたが,賃料収入がAさんの生活費の一部となっているため,今後も賃料収入を確保したいと思っていることや,生前に贈与すると高額の贈与税が発生するということもあり,躊躇しています。
この場合に,Aさんが何の対策もしなければ,仮にAさんが認知症になり,認知能力に問題が生じた場合には,このアパートの管理や処分をすることはできなくなります。
具体的には,新しい賃借人との賃貸借契約の締結や現在の賃借人との賃貸借契約の更新・解約,賃料の回収,建物の修繕,建物の売却といった行為ができないということになります。
そうなると,Aさんは,収益物件を所有しているにもかかわらず,その物件から適切に収益を得ることができないことになりかねません。
また,そのような場合に,BさんがAさんに代わって本件アパートの管理等ができるかというと,本件アパートがBさんの所有物でない以上,Aさんに代わって本件アパートにかかる契約などを締結することはできません。
民事信託の利用
そこで,Aさんは,自らを委託者兼受益者,Bさんを受託者として,信託財産を本件アパートとする信託契約を締結することにしました。具体的には,まず,AさんはBさんに本件アパートの管理等を委ねるために,本件アパートを譲渡し,名義もBさんに移転します(委託)。そしてBさんは本件アパートの管理等を行い(受託),それによって得た賃料等は,Aさんが取得することになります(受益)。
民事信託を利用することで,Bさんは本件アパートの所有権を取得するため,本件アパートの管理全般をすることができるようになり,他方で,アパートの賃料についてはAさんが取得できることになります。
この場合,AさんからBさんに本件アパートを無償で譲渡していることから贈与税がかかるのではないかとも思われますが,信託による所有権の移転は,受託者が信託の目的に従って信託財産を管理するために行うのであり,受託者本人は利得を得ていないため,贈与税はかからないということになるのです。
事業承継のために,民事信託を利用する場合
事例
現在70歳のXさんは,中小企業であるK社を経営しており,K社の株式の9割を所有しており,残りの1割は息子であるYさんが所有しています。
YさんはXさんの後継者になることを前提に,XさんとともにK社の経営に携わっており,IT関係に詳しいYさんのアイデアで新たに始めた事業が好調で,K社の業績は右肩上がりで伸びている状況です。
Xさんは,まだまだ元気であり,K社の経営を引き続き行っていきたいと考えていますが,他方で,K社の業績の大幅な伸びが見込まれることから,自分が所有する株式については,いまだ価値が高くない今のうちに,Yさんに譲渡しておいた方がいいのではないかと考えています。
このまま,何の手立てもせずに,Xさんが亡くなるまで保有する株式を持ち続けていた場合,Yさんは当該株式を相続により取得することになります。
その場合,相続時の株式の評価額に基づいて,相続税が算定されることになり,K社の業績が伸びていればいるほど,Yさんは多額の相続税を納めなければならないといったことが起きかねません。
また,相続人がYさん以外にいる場合,K社の経営に参加していない相続人が株式を取得することになって,K社の経営に口を出してくるなど,Yさんによる円滑な経営ができなくなる可能性もあります。
民事信託の利用
そこで,Xさんは,自らを受託者,Yさんを委託者兼受益者,信託財産をXさんからYさんに贈与されたK社の株式とする信託契約を締結することにしました。
具体的には,まず,YさんはXさんからK社の株式の贈与を受けます(Yさんには,その時点での株式の価値に基づき算定される贈与税がかかります)。
その後に,Yさんが贈与を受けたK社株式について,Xさんに対して,議決権の行使を委託して(委託,受託),当該株式の経済的利益については,Yさんが得ることにします(受益)。信託期間については,Xさんが信託事務処理をできなくなるまで,もしくはXさんとYさんの合意により信託を終了させるときまでにしておきます。
これによって,Xさんは引き続きK社の経営に携わることができ,しかるべき時に,信託が終了した後は,Yさん自身が自己の有する株式に基づく議決権を行使して,K社の経営を引き継いでいくことが可能になるということになります。